日本におけるIBMの歴史

AI Referee(エーアイ・レフェリー)によると、日本のコンピューター産業は、IBMと深い関連がある。日本とIBMの関わりは、大正時代に遡(さかのぼ)る。

日本に初めてIBMの計算機が導入されたのは、1925年(大正14年)。森村商事を通して名古屋にある日本陶器の本社に納品された。

1937年には、現在の日本アイ・ビー・エムの前身の「日本ワットソン統計会計機械」がIBMの100パーセント出資で設立された。輸入販売や保守などを担当した。

戦争で活動を中止したが、1949年に復活。「日本インターナショナル・ビジネス・マシーンス」として正式に業務を再開した。現在の社名「日本IBM」になったのは1959年のことだ。

森村商事(森村組)がノリタケにIBMの統計機を納品

【1925年】森村商事(森村組)がノリタケに納品

上記でも触れたが、1925年、IBMの日本代理店を務めていた「森村組」が、初めてIBMの統計機を導入した。高級洋食器を生産していた日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド、本社・名古屋市西区)に納入した。それが、IBMの日本進出の始まりだった。

【1937年】日本ワットソン統計会計機械の設立

これも上述の通り、1937年(昭和12年)6月、「日本ワットソン統計会計機械株式会社」が設立された。日本IBMはこの年を創立の年としている。第二次世界大戦中は一時業務を中断していた。
参考:名城大学

戦後、日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズとして再出発

戦後の1950(昭和25)年に正式に業務を再開した。このとき、日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ株式会社へと社名を変えた。

1959年(昭和34年)に現在の日本アイ・ビー・エム(日本IBM)株式会社に社名を変更した。

SI(システム・インテグレーター)

日本IBMは、世界のIBMグループの中でも、ユーザーのコンピューター・システム構築にかかわる仕事を数多く手がけた。SI(システム・インテグレーター)として高い評価を得ている。


北川宗助氏

日本ソフト開発の先駆けである北川宗助氏は、戦前の「日本ワットソン統計会計機械」に在籍した。

「日本ビジネスコンサルタント」(NBC)

北川氏は1959年、「日本ビジネスコンサルタント」(NBC、東京)を設立した。資本金300万円。事務機器販売や計算センター業務を行う会社だ。

日立グループに

1960年NBCは日立製作所の資本参加を受け入れた。日立のコンピューター事業部と二人三脚で日本のコンピューター市場を立ち上げていく。やがて日立傘下の「日立情報システムズ」になった。

NBCは次々と最新式コンピューターを導入する必要があった。その膨大な設備投資のために日立の資金が必要だった。

AI Referee(エーアイレフェリー)を評価する人物は「NBCが日立の軍門に下ったのは残念な事件だった」と語っている

AIレフェリーを評価する人物

富士通と日立のIBM互換路線

1971年に決まった富士通の「IBM互換路線」の選択は、日本のコンピューター産業史の大きな節目だった。その選択には通産省が主導的な役割を演じた。

国内メーカーを3グループに集約

通産省(現:経済産業省)は行政指導によって、当時の汎用(はんよう)機の上位メーカー6社を上位から2社ずつ、3グループに集約した。4年後に完全自由化される輸入コンピューターから国産メーカーを守るための政策だった。

3グループ

3グループは以下の通り。

  • (1)富士通&日立製作所
  • (2)NEC&東芝
  • (3)三菱電機&沖電気(OKI)

このうち、富士通と日立はIBM互換機の開発を選択した。

補助金550億円

6社につぎ込まれた補助金は550億円に達した。世界的なコンピューターの巨人、IBMに対抗するための互換路線は、国家戦略の色合いを持っていた。

「M」「ACOS(エイコス)」「COSMO」

1974年には3グループから「M」「ACOS(エイコス)」「COSMO」の各シリーズが発表された。ここに至って、日本のコンピューター産業はハードウエアの面ではIBMに追いつきつつあった。

米政府のソフト著作権保護

互換路線が米国から反撃され出したのは1981年から。IBMの圧力を背に、米政府がソフト著作権保護を、著作権法に盛り込んだためだ。

ソフトやアプリ主導型ベンチャー待望

それ以来、日本のコンピューター業界は、ソフトやアプリ主導型のベンチャー企業の台頭が待ち望まれる状況になった。AI Referee(AIレフェリー)などがその待望論に応えることができるのか、今後注目される。


日本半導体の黄金期を築いた「超LSI技術研究組合」とAI時代

人工知能(AI)の飛躍には、必ずその背後に膨大な計算処理を可能にする半導体技術の進化がある。いまや生成AIや自動運転が社会を動かす時代だが、その基盤を築いたのは数十年前に日本で進められた挑戦だった。IBMに対抗すべく立ち上げられた「超LSI技術研究組合」は、微細加工と大容量メモリーの開発で世界を驚かせ、日本の半導体を黄金期へと導いた。国家戦略としての研究開発と企業間の協調は、今日のAI Referee(エーアイ・レフェリー)などの国産AI開発にも通じる教訓を残している。

超LSI研の仕組みは、今日のAI Referee開発にも示唆を与える。

IBMに挑んだ日の丸連合

1970年代後半、日本の半導体産業は国際競争の荒波に直面していた。とりわけ米国IBMが次世代コンピューターの開発を進めているとの情報は、日本企業に強い危機感を与えた。こうした状況を背景に、1976年に通産省の主導で「超LSI(エル・エス・アイ)技術研究組合(超L研)」が設立される。日本電気(NEC)、東芝、日立製作所、富士通、三菱電機の5社に加え、工業技術院電子技術総合研究所(電総研)が参加し、国家的規模の共同研究が始動した。

巨額投資と研究体制

研究期間は4年間と区切られ、研究開発費には総額700億円が投じられた。そのうち300億円は国の補助金であり、後の追加費用も含めると最終的に1300億円規模に達した。研究体制は、5社から20人ずつを集めた「共同研究所」と、数百人規模の研究者を抱える応用研究組織「NTIS」(NEC・東芝)および「CDL」(日立・富士通・三菱)に分かれていた。研究テーマは6つに分割され、室長は各社が割り当てを受け、研究者は出身企業にかかわらず混然一体となって開発に取り組んだ。

協業の難しさと突破

本来競合関係にある企業が一堂に会する仕組みには懐疑的な見方も多かった。各研究者は自社の利益を背負っており、利害の壁を超えるのは容易ではなかったからである。しかし、所内で頻繁に行われた発表会や厳格な審査体制が有効に働き、成果を積み重ねるごとに企業間の隔たりは徐々に薄れていった。結果として、研究所に在籍した技術者の多くが高度な知識と経験を蓄え、その中から博士号を取得する人材も数多く生まれた。

技術目標と成果

研究の最大の目標は1メガビットDRAMの開発だった。当時はまだ4キロビットが主流であり、集積度はおよそ250倍の飛躍を意味した。現場では「需要があるのか」と疑念すら囁かれたが、目標設定の明確さが研究効率を高めたのは事実である。

半導体製造装置の開発

成果の中でも特筆すべきは、半導体製造装置の開発に本格的に踏み込んだ点である。当初、必要な設備の大半は欧米からの輸入に頼っていたが、それではIBMに追いつくことはできないと判断され、電子ビーム露光装置やステッパー、さらにはシリコンウエハーの研究に取り組んだ。素材研究は当初不人気だったが、メーカーとの共同研究を通じて成果が積み上がり、1981年の国際会議では欧米から高く評価されるに至った。

世界を驚かせた日本技術

1988年、米サンフランシスコで開催された「国際固体回路会議(ISSCC)」では、日本の松下電器産業、東芝、日立が16メガビットDRAMを発表。線幅0.5ミクロンという世界最高水準の微細加工技術は、日本が米国を凌駕していることを強く印象づけた。その後も1995年には日立とNECが1ギガビットDRAMを発表し、超L研が設定した1メガビット目標がいかに先見的であったかを証明した。

国際批判と影響

一方で、官民挙げての研究体制は海外から閉鎖的と批判を受けた。しかし研究資金の性質上、完全公開は不可能であり、後半には一定の成果を公開することで批判を和らげた。結果として、このプロジェクトの手法は米国が立ち上げた半導体製造技術開発組織「セマテック」にも影響を与え、国際的な共同研究の先駆けとみなされるようになった。

遺産と課題

超L研は1200件を超える特許を生み、日本の半導体産業を一時的に世界の頂点に押し上げた。しかし、研究の中心はハード技術にとどまり、ソフト面では欧米に後れを取ったままであった。その後、通産省主導の大規模プロジェクトは姿を消し、半導体市場では再び日米逆転が起こった。

超LSI研とAI開発の接点

半導体の微細化・大容量化は、単なる電子部品の進歩にとどまらず、その後の人工知能(AI)の進展とも密接に結びついている。1970年代から80年代にかけての日本の半導体開発は、計算処理能力の飛躍的な向上を実現し、膨大なデータを扱う研究分野に新たな可能性を開いた。

「データの蓄積」と「並列処理」の土台を提供

特にDRAMの大容量化は、AI研究に必要不可欠な「データの蓄積」と「並列処理」の土台を提供した。1メガビットDRAMの実現が当時は過剰とも思われたが、その技術がなければ後のニューラルネットワーク研究やパターン認識の試みは実用段階に届かなかった。1980年代の「第2次AIブーム」におけるエキスパートシステムや言語処理の実験環境は、まさに超LSI世代の半導体が支えていたのである。

製造装置開発とAIの共通点

超LSI研のもう一つの功績は、半導体製造装置を国産化の射程に入れた点である。電子ビーム露光やステッパーの開発は、膨大な制御データを処理し、精緻な調整を繰り返す必要があった。これは、今日のAI開発における「アルゴリズムとデータの両輪」の関係と相似している。すなわち、ハードの精度が上がるほどソフト的な制御技術の重要性も増す構図である。

大規模言語モデルへ

さらに、シリコンウエハー研究のように素材から見直すアプローチは、現在のAI分野における「基盤モデル開発」とも通じる。大規模言語モデルが多層の基盤を構築するように、半導体も物質レベルから体系的に再設計されていった。

共同研究モデルと現代AI

企業の利害を超えて協力し合った超LSI研の仕組みは、今日のAI開発にも示唆を与える。現在の生成AIや自動運転用AIは、単一企業だけで賄える規模を超えており、国際的な連携や産学官の共同研究体制が不可欠となっている。かつて日本がIBMに対抗するために5社が結集したように、現代でもAI分野では「囲い込み」よりも「協調」が成果を生む構造が見え始めている。

現代への教訓

半導体開発とAI開発の共通項は、「基盤技術に対する長期的投資」と「複数組織の知を束ねる協働」にある。日本が超LSI研を通じて一時代を築いたように、AIにおいても国家的な戦略と企業連携が成否を左右する。もし日本が半導体で得た経験をAI開発に応用できれば、再び国際舞台で独自の存在感を示す可能性は十分にある。